旅のエッセイ~ハノイの風にのって

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旅のエッセイ
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異国をひとりで旅していると、不思議なほど、よく声をかけられる。
決まり文句のひとつは、「ここを案内しようか?」というものだ。

たいていは、あまりにありがちな罠。
親切の仮面の奥に、金銭を狙う素顔が見え隠れする。
けれど時に、直感が語りかけてくる。
「この人は、きっと大丈夫だ」と。
そんなとき、好奇心が勝ってしまうのだ。

ハノイの旧市街で声をかけてきた彼も、そんなひとりだった。
名はジェームス。
「もし、必要なら——バイクで街を案内してもいいよ」
彼は、確かに if you need と言った。
それが、押しつけがましくなくて、心地よかった。
落ち着いた声に、誠実さが宿っていた。
気付いたら、「じゃあ、お願い」と答えていた。

翌日、ホテルのロビー。
約束の時間にほんとうに、ジェームスはやって来た。
ハノイの中心から少し離れたホテルだったし、半分、来ないだろうと思っていた。
だから現れたとき、「疑ってすまない」と声に出さずに謝った。

彼は、僕の分のヘルメットとマスクまで用意してくれていた。
ハノイのバイク乗りは、砂埃のため、マスクが欠かせない。
その気遣いに、静かな優しさを感じた。

「準備はいい? 行こう」
バイクにまたがり、彼の背中にしがみつく。
合図のように、エンジンが風を切る音を立てた。

これがハノイ名物。
まるで生きもののようにうねるバイクの群れ。
ジェームスはそのうねりの中を、迷いなく駆け抜けていく。
あまりにスリリングで、最初は少し怖かった。
けれど次第に、それも愉しみに変わっていった。

観光名所ではバイクを停め、ベストスポットで写真を撮ってくれる。
そのたびにヘルメットを外すのだが、慣れない僕はいつももたつく。
「君はまるで赤ちゃんだね」
呆れ顔のジェームスが、優しく手を貸してくれる。

そうやって、少しずつ、距離が近づいていく。

文廟、オペラハウス、ハノイ大教会、ホアンキエム湖…
僕らはハノイの風になった。

照りつける陽射しが、ふたりの心を照らし、
街を駆け抜ける風が、笑い声を運んでいく。
鳴りやまぬクラクションでさえ、ふたりだけの音楽に聴こえた。
その瞬間、世界のなかで、僕らだけが特別に輝いているようだった。

昼過ぎ、彼のおすすめのシーフード店で蟹を山ほど平らげた。
もう食べられない、と笑いながらも、皿の上は空っぽだった。

駐車場へ向かう帰り道、ふいに肩を組まれて言われた。

「なあ、おれたち、こうしてると兄弟みたいじゃないか?」

赤ちゃんから、兄弟へ。
僕はひとつ、大人になったらしい。

ジェームスツアーの終わりも、彼はちゃんとホテルまで送り届けてくれた。
最後の最後まで、彼は紳士だった。

日本に戻ってからも、時々、彼からメッセージが届く。

「無事に着いたか?兄弟」
「転職おめでとう、兄弟。うまくいくといいな!」

ハノイの風景に溶け込むように、忘れがたい思い出となったジェームスとの一日。
See you soon, bro.


このエッセイに登場するホテル

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